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エゴチスムな日々

イタリアの閑暇そしてその悦楽

カラヴァッジョに影響を与えた画家

イタリア絵画 カラッチ カラヴァッジョ バロック マニエリスム ミラノ・ロンバルディア ローマ

----- カラヴァッジョは一群の地方画家(ロンバルディア派)の試みを

様式的価値にまで高めた画家だった -----と言った美術史家ロベルト・ロンギ。

 

カラヴァッジョはミラノで生まれ、そして13歳頃にシモーネ・ペテルツァーノの

工房へ弟子入りしていますが、どのような絵を見て影響を受けたのでしょうか。

孤独感が漂う画家カラヴァッジョですが、ロンバルディア派が与えた

彼への影響を調べてみました。

 

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有名な「トカゲにかまれた少年」の絵です。トカゲにかまれるという、

絵の題材としては少し変な感じがしますが、こうした小さな動物と遊ぶ風景や

動物にかまれた瞬間など、その一瞬の表情や驚きの様子をテーマとしたのは

ロンバルディア派の特徴でもあったようです。

 

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前回ご紹介したカラヴァッジョと交流のあったアンニバーレ・カラッチの

「猫にいたずらをする子供たち」という絵。さそりを猫の耳にあてて

無邪気に遊ぶ姿が描かれています。宗教的な意味もなく、普通の日常を

切り取ったかのような絵です。

 

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これはクレモナの女性画家ソフォニスバ・アングイッソーラのスケッチで

「カニに手を挟まれて泣くこども」というタイトルがついています。

なんと彼女の父親は巨匠ミケランジェロにこのスケッチを送り、巨匠が

ソフォニスバの才能を理解したとも言われているものです。

指を挟まれて痛くてビックリして泣いている様子が伝わってきます。

 

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ソフォニスバはこうした子供たちの日常や遊びを描いていて、こうした

象徴性の希薄な、通常の風俗画がロンバルディア地方ではすでに確立されて

いたということが分かります。カラヴァッジョもこうした先輩たちの

絵を日常的に見て研究していたのでしょう。

 

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余談ですが、カラヴァッジョの先ほど挙げた絵の、

花瓶の光の屈折まで描き、写実的に描写されているなど、やはり

カラヴァッジョの才能を表しているような感じがします。

 

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上の絵は16世紀初めから中頃にかけてミラノやブレーシャなどで

活躍していた画家カッリスト・ピアッツァ・ダ・ローディの

「コンサート」という絵。1528年頃の作品です。

これとよく似ているのが ↓

 

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カラヴァッジョの「合奏」1597年頃。白い衣装と手前に見える少年の

肩が非常に印象的です。右から2番目の少年はカラヴァッジョの

自画像ではないかと言われています。

 

上記に挙げたそれぞれの絵を見て気づくのは、ロンバルディア派の

絵というのは上半身だけを描いたもの、そして人物の身体の一部が

トリミングされているものが多々あるということです。

こうしたトリミングはロンバルディアの画家たちには定着した

方法で、当時のローマなどでは見られない方法だったそうです。

カラヴァッジョがローマで制作したトリミングされた作品

(例えばこの『合奏』など)を見たローマの画家たちは

さぞ驚いたことでしょうね。

 

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もう1枚カッリスト・ピアッツァ・ダ・ローディの1534年頃の

「キリストの磔」の絵。まさに今、磔にされている様子が

リアルに描かれています。足の裏まで描いているのも印象的。

 

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カラヴァッジョの「聖ペテロの逆さ磔」です。

光と影がもっと劇的になり、逆さ十字を持ち上げようとする

様子などがもっとリアルになっているような気がします。

足の裏が汚れているのも注目です。

 

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アンブロージョ・フィジーノの「聖マタイと天使」は

1585年頃の作品。フィジーノはシモーネ・ペテルツァーノの工房に

いたので、おそらく同工房に弟子入りしたカラヴァッジョは

彼の影響を強く受けているのではないかと思います。↓

 

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カラヴァッジョの「聖マタイと天使」は残念ながら第二次大戦で

焼失してしまい、白黒の写真が残っているのみですが・・・

フィジーノの天使に比べ、カラヴァッジョの天使は妖艶さ?を

増し、そして聖マタイが市井の人のようです(そして文盲?)

 

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こちらもアンブロージョ・フィジーノの「蛇の聖母」で

1583年頃の作品です。ミラノのサン・フェデーレ教会に

ありますが、この教会はカラヴァッジョが足しげく通って

いたと言われていて、この絵を何度も見ていることは確かだと

思います。

 

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こちらはカラヴァッジョの「聖アンナと聖母子」1605年。

マリアがキリストを支える姿など構図が似ていますね。

 

聖母が蛇をこうして踏みつけるという図像は「罪に対する

勝利」という意味がありますが、バロック時期(宗教改革時期

とも重なりますが)には、もともとあった蛇の意味「原罪」と

合わせて「異端 = プロテスタント」という意味も加わっているのだとか。

 

カラヴァッジョはロンバルディア派の風俗画に見られるような

自然主義や光と影の効果などを身につけてローマへ行き、

そしてそこで自らの表現をさらに高めていったような気がします。

 


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トレント公会議後の宗教画とカラッチ

イタリア絵画 カラヴァッジョ グイド・レーニ コレッジョ バロック マニエリスム ミラノ・ロンバルディア ローマ カラッチ

カトリック教会は1545年から’63年まで断続的にトレント公会議を

開き、教会の建て直しをはかりました。そして教会における美術作品は

「聖書や由緒正しい聖人伝にもとづくものであるべき」と定め、また

「分かりやすく写実的で、これを見る信徒の心に強く訴えるべき」ことが

求められます。

 

その頃、絵画や彫刻に携わることがいわゆる「芸術」として、

工房で働く職人や手工芸から区別され、増々「芸術家」としての

意識を強めていきます。

そしてイタリアから始まった芸術家団体であるアカデミーが

各地に次々と設立されていきました。

 

そんな中、ボローニャで1560年に生まれ、同じく画家であった

兄や従兄と共に、ラファエロに代表される盛期ルネサンスの伝統の

復興を目指すことをスローガンにして1580年頃

「アカデミア・デリ・インカミナーティ」をボローニャに設立し、

カラヴァッジョと親交のあったアンニバーレ・カラッチ。

 

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    (カラッチ一族;おそらく左がアンニバーレ)

 

カラッチは下の「キリストとサマリアの女」のような
ヴェネツィア派の影響を受けた柔らかな色彩とラファエロなどから学んだ
徹底した構図にもとづく絵を描いていました。

また画面に広がる風景も素晴らしく、光にあふれていて、詩的な画家だった

ジョルジョーネやコレッジョ的な雰囲気も備えた作品です。

 

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そして当時のローマの風景を理想化したような趣きのある「エジプト逃避」
この絵は神話や宗教画の背景のための風景ではなくて、すでに純粋な

風景画としてのジャンルを確立していると思われます。

 

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それだけではないのがカラッチの凄さなのですが、彼はイタリアにおける

「風俗画」の先駆者でもあり、単なる伝統主義者ではなかったのです。

 

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上の「豆を食べる人」は、宗教画などと並んでロンバルディア派の

伝統を受け継いた風俗画です。特筆すべきなのは、当時の現実の

民衆の生活を見つめて、「最後の晩餐」のような宗教的な

意味も一切なく、ただ民衆の「普通の食事」姿が捉えられていると

いうこと。まるで19世紀の自然主義の画家が描いているかのような

錯覚に陥るほどです。

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この「肉屋」の光景を描いたものも、当時は非常に珍しく、また画期的で

北方の画家が描いたような、肉の細かな描写が本物のように見えると

いうのではなくて、肉屋で働いている人たちの日常の一コマが切り取られて

いるという点。カラッチはこうした風俗画すらも、まるで宗教画と

同じように素晴らしいと言いたかったのでしょうか。

 

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そして私がカラッチの絵の中でも一番好きなのが、この「ピエタ」です。

美術史の先生が「完璧な構図とデザイン」である、と。そして
恐らくミケランジェロのヴァチカンにあるピエタ像を何度も模写した結果と

コレッジョから色彩のヒントを得ているかもしれないとも

おっしゃっていました。

 

美しいキリストの上に光が降り注がれ、彼を悼む聖母の表情が痛々しくて

見る者を哀悼へといざないます。足元には愛らしい天使がキリストの

傷を指し示し、まるでこちらの注意を引いているかのようです。

 

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今はナポリのカポディモンテ美術館に展示されている「ピエタ」ですが、

これはもともとは祭壇画なので(ファルネーゼ宮の礼拝堂にあったとか)

当時は祭壇にロウソクが灯され、祈りを捧げる信者たちには、

暗がりの中にほんのり白く美しく浮かび上がるキリストと

聖母の表情が見えたことでしょう。そして信者の心を強く打ったに

違いありません。それこそがまさに「バロック」なのだと思います。

 


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パルマとコレッジョ

イタリア絵画 スタンダール バロック マニエリスム マンテーニャ コレッジョ

プロシュット(生ハム)で有名なパルマは人口約18万人の町。

この小さな北イタリアの町に16世紀に活躍した画家コレッジョがいます。

彼はサヴォナローラの登場した暗い時代のフィレンツェやティツィアーノの

ような巨匠が活躍したヴェネツィアといった大きな芸術のうねりがある場所を

恐らくよく知らなかったと言われてますが、それが幸いしたのか、彼の作品は

いつも明るく優美で官能的です。

 

この町とコレッジョについてのエピソードでとても印象的なのがスタンダール

『イタリア紀行』に書かれてあります。

1816年12月1日スタンダールがコレッジョのフレスコ画を見るためだけに

ミラノから移動して1時間ほどだけパルマに立ち寄りました。

「イエスに祝福される聖母は、涙がこぼれるほど私を感動させる」

 

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このフレスコ画は元々サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会の

後陣に1522年に描かれましたが16世紀末にはすでに痛みが激しくて

剥がして保管、その跡には複製が飾られました。このオリジナルは

現在パルマ国立美術館に展示されています。

 

パルマを訪れたら外せないのが12世紀末には現在の姿になった

ロマネスク様式のパルマ大聖堂。

 

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イタリアの聖堂の特徴として、聖堂と鐘楼が別に建てられるということが

あると思います。この高いゴシック風な鐘楼は大聖堂完成1世紀後の

13世紀末に完成しました。

 

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大聖堂の入口プローティロは1281年頃のもの。

このプローティロは北イタリアのロマネスク建築に見られるもので、

特徴はライオンなどの彫像があって、その上に円柱、そして円柱に

かかるアーチ型の屋根という構造になっています。

ライオンのほか雄牛や像なんかもあるようですが、パルマはライオンでしょうか。

前にブログでご紹介したベルガモ大聖堂のプローティロもライオンでした。

 

egotisme.hatenablog.com

中に入ると一面ルネサンス期のフレスコ画で溢れていて目を奪われます。

 

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そしてクーポラの方まで進んで行き、ふと上を見上げると・・・

 

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「聖母被昇天」が圧倒的に美しい!天井がいきなり開いて、光がワッと

差し込んでくる感じがします。全てが中心に向かって勢いよく上って行って、

まるで見ている自分も渦に巻かれて上っていってしまいそうな錯覚も。

これがコレッジョをして「光の効果の達人」と言わしめる技術です。

 

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マンテーニャゆずりの短縮法を用いた人物表現、そしてそれまで描かれた事が

なかった「聖母が押しつぶされたように表現」されているのも印象的です。

1526年から1530年にかけて描かれました。

 

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もう一つ、パルマに行って見逃せないのが国立美術館の中にある

「聖母子と聖ヒエロニムス, マグダラのマリア」です。

元々はパルマのサン・アントニオ聖堂のために描かれたものですが、

今は美術館内で保管されています。

 

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コレッジョは人物の表現に甘さがあるというか、優美というか、

どの人も素晴らしく美しいというのが特徴だと思います。また全体的に

画風も明るいですね。ただ面白いことに彼自身の性格は非常に質朴だったと

伝えられているようですが・・・

 

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この天使の美しい横顔には、ただただうっとりと眺めるのみ。

私の美術史の先生はコレッジョの講義中にただ一言「Bello(美しい)」と。

スタンダールは「コレッジョは画風の優美さに表現の優美さを結び付けた

人である」とも書いていて、これも言い得て妙なり、です。

 


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ベルニーニと視覚芸術

彫刻 カラヴァッジョ バロック ミケランジェロ ローマ ベルニーニ

イタリアが生んだ天才芸術家は何人かいますが、その中でも

彫刻家であり、建築家であり、また視覚芸術の統合の実践者でもあった

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは17世紀最大の天才。

ローマで彼の作品に触れてファンになった方も多いのではないでしょうか。

 

今回は偉大なるベルニーニの初期の作品をご紹介したいと思います。

 

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    (ベルニーニの自画像)

 

ベルニーニは1598年、フィレンツェ出身の彫刻家ピエトロ・ベルニーニと

ナポリ人のアンジェリカ・ガランテの間にナポリで生まれました。

そして父ピエトロが法王パウロ5世のもとで働くためにローマへ移住します。

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ7歳の時でした。

 

ベルニーニはすぐにカッとなる傾向があったようですが、彼の自画像からも

「激情的」な印象を受けますよね。その反面とても真摯で社交的だったとか。

また頭の回転がはやく、少々「芝居がかった」ところもある人だったようです。

 

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      (サントーニの肖像)

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      (コッポラの肖像)

 

父ピエトロの工房を手伝ううちに、息子ジャン・ロレンツォの早熟な才能が

少しずつ法王やその甥ボルゲーゼ枢機卿に認められていきます。

サンタ・プラセーデ教会の「サントーニの肖像」や

サン・ジョヴァンニ・ディ・フィオレンティーニ教会の

「コッポラの肖像」などは、父ピエトロの工房に依頼がきて、まだ

10代前半だった息子ジャン・ロレンツォが制作したと言われていますが、

顔の表情のみならず、その個性までが表現されてるかのようです。

 

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上の写真はベルニーニが20歳頃に制作した「のろわれた魂」という

スゴイ題名が付いている作品なのですが、彫刻にこれほどの表情を

持ち込んだベルニーニの想像力に圧倒されます。

こうした表情はカラヴァッジョの「メドゥーサの首」などの

影響を受けているかもしれません。↓

 

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       (カラヴァッジョのメドゥーサ)

 

また「ミケランジェロの再来」といわれたベルニーニは同じく

ダヴィデ像をつくっています。

 

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ダヴィデが力いっぱいに石を投げる、まさにその瞬間を彫刻にしたもの。
私の美術史の先生はMolto Teatrale(非常に演劇的)という言葉を連発しました。
ダヴィデの表情も、いま、まさに投げんとするのが伝わってくる感じ。

いかにも激しい、動的な印象です。このダヴィデの表情はベルニーニ自身が

モデルだとも言われています。

 

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有名なミケランジェロのダヴィデ像ですが、ベルニーニのと比べ
16世紀と17世紀の違いがハッキリと分かります。

ミケランジェロのダヴィデは石を握ったまま「思考」して止まっている、

非常に静的な印象です。ダヴィデの存在そのものが非常に大切にされて

いる感じをものすごく受けます。そしてベルニーニのダヴィデは

それを見る者が、まるでそこで古代演劇が繰り広げられているかのような

視覚効果を与えているのだと思います。

 

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       (アポロとダフネ)

 

ベルニーニは古代研究に非常に熱心で、どんどん作品を制作していきました。

この「アポロとダフネ」は何がスゴイかと言えば、大理石の質感。

固い大理石のはずなのに軽やかな印象を与えています。

ダフネの肌は光が当たって輝くようですが、樹皮はザラザラとした質感が

印象的です。

 

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彫刻なのに絵画のような趣なのは、ベルニーニが彫刻において初めて「風」に

よる効果を与えたからでしょうか。またベルニーニの彫刻は360度どこから見ても

美しい・・・これは本当に素晴らしい技術ですね。

また非常に官能的な雰囲気を帯びているのもベルニーニの、そしてバロック時代の

特徴かもしれません。

 


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レオナルド・ダ・ヴィンチ 終焉の地

ルネサンス レオナルド・ダ・ヴィンチ フランス

この夏はイタリアからモン・スニ峠を越え、約900kmの車の旅をしました。

行先はレオナルド・ダ・ヴィンチ終焉の地アンボワーズと彼が

人生の最後の3年間を過ごしたクロ・リュセ館です。

今年2016年はレオナルドが渡仏してからちょうど500年後にあたります。

 

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このクロ・リュセ館は1471年に建設され、ロワールの支流である

アマス川流域の田園地帯にあって、城館は広大な森林に囲まれています。

レオナルドをフランスまで呼び寄せたフランソワ1世の居城アンボワーズ城から

400メートルほど離れて建っています。

ここでレオナルドは1516年から1519年5月2日に逝去するまでの約3年間を

過ごしました。

 

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館の脇にある古い塔に上り、この回廊を渡って内部を見学します。

この赤レンガの回廊がイタリアっぽい感じがして、ここをレオナルドも

通り、この同じ景色を見ていたのかと思うと胸がドキドキしてきます。

 

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緑豊かで広大なお庭が広がっていて、本当に清々しい感じです。

フィレンツェなどの都市部ではこれだけ緑に囲まれることはないので、

レオナルドにとっては非常に喜ばしい環境なのではないかと思いました。

 

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この寝室でレオナルドは生涯最後の3年間を過ごしました。

ここで遺言も書いたと言われており、1519年5月2日に教会の秘跡を

受けた後、67歳で亡くなりました。

 

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ベッドの脇にアングルが描いた「レオナルド・ダ・ヴィンチの死」の複製が

飾られていました。レオナルドが亡くなった時、フランソワ1世がここにいたと

いう史実はないそうで(その時アンボワーズにいなかったと伝えられています)

この絵は19世紀の画家アングルの想像なのですが、レオナルドを非常に

慕っていたフランソワ1世の想いが伝わってくるような絵画だと思います。

 

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また寝室から見えるアンボワーズ城の、この眺めをレオナルドはとても

気に入っていたのだとか。この風景のデッサンなども残されているようです。

 

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聖カテリーナの肖像画が展示ケースの中にありました。これはレオナルドの

弟子ベルナルディーノ・ルイーニの作品です。この目の伏せ具合、口元の

描き方、レオナルドの影響を受けているのがハッキリと分かります。

その他、ルネサンス期に使われた日常品の展示。こういうコップやお皿で

レオナルドも食事していたのでしょう。

 

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寝室の横には、レオナルドが建築家、エンジニアとして多くのアイデアを生み出し、

したためていたアトリエが再現されていました。フランソワ1世のために発明した

道具やデザインの数々はこの部屋から生み出されたのでしょう。

何より印象的なのが、大きな窓から燦々と差し込む日の光。

ルネサンス期の館で、これほど光が溢れて明るい部屋を見た事がないので、

この館で静かな余生を過ごしたレオナルドは非常に幸福だったのではないかと

感じました。

もちろんイタリアを離れて淋しいと思う気持ちはあったでしょうけれど。

 

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当時の厨房も残されていました。レオナルドは弟子のほかに、専属の

料理人までイタリアから連れてきていたようです。彼女の名前はマトゥリーナ。

マトゥリーナはレオナルドにどんな料理をここで作っていたのでしょうか。

彼は菜食主義者だったらしいので、この大きな暖炉で猟肉を料理する際は

何か宴会などの時だけだったかもしれませんね。

 

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お庭側から見たクロ・リュセ館。赤レンガと石灰岩の組み合わせが印象的。

 

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ここはまたお庭が素晴らしかったです。手入れもよくされていて、

本当に気持ちの良い空間が広がっていました。

何より感動的だったのは知恵の樹の下にベンチが設けられていて、

その前にあるオーディオ(4ヶ国語に対応)のボタンを押すと

レオナルドが弟子たちに語りかけた考察が辺り一面に響き渡るのです!

ベンチに座りながらそれを聞いていると、すぐそこにレオナルドが

弟子を連れて散歩しているかのような錯覚に陥り、そしてウットリしてしまいました。

フランス人というのはこうした演出が、なんて上手な人たちなのでしょうか。

 

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この森の散歩道はレオナルドに画法へのインスピレーションをも

与えたに違いありません。こうした半透明のカンバスに描かれた彼の絵を

が光と影に彩られているのを見ると、

 

-理解するための最良の手段は、自然の無限の作品を鑑賞することだー

 

と言ったレオナルドの気持ちが少し分かるような気がしました。

 


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イタリアの小都市探訪 スポレート

イタリア絵画 ウンブリア 中世

イタリアの小都市はどこもそれぞれに魅力がありますが、

ウンブリア州にあるスポレートもまた忘れがたい町の一つ。

特に細い坂道を上り、ふと開けた広場に佇むように建っている、

午後の光に照らされた大聖堂を見た時の感動は忘れられません。

 

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スポレートは現在約4万人ほどが住む、ウンブリア州南部にある町。

紀元前7世紀にウンブロ族が集落を作ったのが始まりとされていて、

その後はローマ帝国の植民地となりました。なのでローマ時代の遺跡も

所々に残っています。下の写真はどっしりとしたドゥルソの門。

1世紀初め頃(23年頃)に建造されたもので、ここを通るとローマ時代に

フォロのあったメルカート広場へと続きます。

 

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大聖堂の中も必見です。フィリッポ・リッピの遺作となる

「聖母の戴冠」の美しい天井画に目を奪われます。

 

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フィリッポ・リッピはこの天井画を1468年にある程度まで完成させましたが、

その後病に伏し、翌年10月に亡くなりました。それから後は天井画部分を

息子のフィリッピーノ・リッピが、壁画部分は弟子のフラ・ディアマンテが

後を引き継ぎ完成させたと言われています。

 

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壁画の左側には「受胎告知」の絵があり、その聖母の顔は

画家が最も愛した女性ルクレツィア・ブティ(修道女だったルクレツィアを

リッピは見そめてしまい、絵のモデルに頼んだあげく、なんと駆け落ち

してしまった!というエピソードは有名)の顔で描かれています。

 

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床にも注目!大聖堂の中央身廊と後陣中央のモザイクの床は、

なんと12世紀のもの。おそらくコズマーティ様式だと思います。

コズマーティ様式とは12~14世紀にかけてローマで大理石装飾の技術に

長けたコズマ家が活躍し、その一族の名前を取ってコズマーティ様式と

呼ばれる装飾です。ローマだけでなく、ウンブリアでも活躍していた

のですね。

 

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スポレートの町は急な坂道も多く、また細い路地もあって

体力勝負・・・しかしウンブリアは実は食の方も満足できるのです♪

オリーブオイルや黒トリュフの名産地でもあります。

特にストランゴッツィというウンブリアのパスタに黒トリュフ・ソースを

かけたお料理は絶品でした。

 

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こういう名産品を取り扱ったお店も多いです。お土産探しにもピッタリ。

迷わずウンブリア産のオリーブオイルを買いました。これが爽やかで

サラダにかけてもピッタリの美味しさ!香りもほのかでお気に入りの1本と

なりました。

 

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スポレートのレストラン「Cuore&Sapore」のオーナーも

お料理にはこのマルフーガのオリーブオイルを使っていると

おっしゃってました。そこで食べた牛フィレ肉トリュフ・ソースも

忘れられない1皿になりました。

 

 


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絵画の中のファッション

イタリア絵画 ラファエロ ルネサンス

以前ブログでご紹介したブロンズィーノ描くエレオノーラ・ダ・トレドの

肖像画。その時にドレスに使われている美しい布地について少し触れましたが、

今回はその袖からポコポコとはみ出ている、白い布について書きたいと思います。

 

egotisme.hatenablog.com

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美しい袖の布地の切れ目からはみ出ている白い布地・・・

ルネサンス時代のドレスの袖は常に取り外しができるようになっていて

そこだけ取り替えたりしていたようですね。その縫い合わされていない

布と布の間から下に着ている白い服がはみ出しているのです。

 

この白い服はずばり「下着」です!

当時はリネン製の白い下着を着ていたようで、色々な肖像画を見れば、この

白い下着がいかに大切だったかが分かります。

 

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ティツィアーノ描く1514年頃の肖像画にもポコポコと袖から白い布が

はみ出していますね。まるでそれがアクセントになっているかのようです。

 

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もちろん女性だけでなく、男性の衣装にも同じように下着がはみ出るような

袖の仕組みになっています。これはフランソワ1世の肖像画です。

よく見れば袖だけでなく、前身ごろからも白い布がはみ出ていますね。

フランソワ1世のオシャレ心だったのでしょうか。

 

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こちらは1530年頃のバルトロメオ・ヴェネトが描いた肖像画。

光沢のある美しい表着が故意に切られ、その隙間から白い下着がのぞくような

形になっています。

 

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これはラファエロが描いた1516年頃の肖像画。こちらはポコポコと、というよりも

大きく切れた布地からチラリと見える感じの袖になっています。

豪華な衣装の隙間からこうして白い下着をのぞかせる流行がルネサンス期に

あったということが分かります。現在もジーンズなどを切り裂くような

流行がありますが、ルネサンス期にも上の絵にあるように「切り裂いた袖」が

大流行したのだそうです。意外な所で現代との共通点が見えて面白いですね。

 

こうしたリネンの下着は、中世頃からなんと19世紀の末まで、ほとんど形の変化なく

男女ともほぼ同型で使用されていたのだとか。ヨーロッパで木綿が一般的になるのは

19世紀はじめ頃。それまではリネンだけだったのですね。

 

リネンは下着だけでなく、ファッションにとって不可欠だったレースの材料でも

ありました。このルネサンス時代に流行ったドーナツ状の襞襟もリネン製です。

 

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言わずと知れたエリザベス女王1世の肖像画。この襟を「ラフ」と呼びます。

主に16世紀から17世紀頃にヨーロッパ中で流行したようですが、

特にスペインやオランダで大流行しました。

エリザベス女王のラフも美しいですけど、袖や前身ごろから

白い下着が出ていますね。この肖像画が1575年頃に描かれているのを考えれば

これがかなり長い間ヨーロッパ中で大流行していたということが分かります。

 

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1606年頃のルーベンス描く肖像画です。17世紀になると袖からポコポコと

白い下着が見えるのがなくなって、襞襟だけがやたらと強調されています。

 

このラフは(また下着も)白色だから汚れやすく、それを常に真っ白に

保っておくのは手間暇のかかることだったでしょう。もちろん庶民や農民には

そんな白い下着をつけるような贅沢は出来なかったと思います。

だからこそ、こうした肖像画でもより強調して描かれているのではないでしょうか。

当時はラフの形を保ち常に白い状態を維持するため専用の召使まで存在したとか!

つまり白い下着をはみ出させ、ラフの美しい形を保った姿を肖像画に残すのは

それだけ「服それ自体の価値」を誇示し、贅沢な行為であることを知らせるという

役割もあったのでしょうね。

 


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ラファエロ;巨匠からの影響

イタリア絵画 トスカーナ ラファエロ ルネサンス レオナルド・ダ・ヴィンチ ウンブリア ミケランジェロ

美術史では、1520年のラファエロの死を以て「ルネサンスの終わり」と

し、その後の様式「マニエリスム」へと変化していきます。

そんな一つの重要な区切りを担う画家ラファエロは1483年にウルビーノで

生まれました。

 

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彼の父親も画家であり、また母親は裕福な商人の娘で、その間に

生まれたラファエロは当時としては珍しく母乳で育てられたと

言われています。これはヴァザーリが『芸術家列伝』の中で

「ミケランジェロが母乳ではなく、乳母の乳によって育てられ、それが

石工の妻であったために彫刻家になった」という記述と対照してみると

面白いですね。

 

ラファエロの父は彼が11歳の時に亡くなり(母親は彼が8歳の時に

亡くなっていました)孤児になりましたが、その頃ちょうどペルージャの

ペルジーノの工房へ弟子入りすることになります。

 

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     (ペルジーノ作)

 

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    (ラファエロ作)

 

この磔刑図(上)は師ペルジーノのものですが、ラファエロは非常に

素描力に優れていたようで、どんな絵や技法であれ、直ちに自分の物に

できたのだとか。 この修業時代のラファエロの絵は師のペルジーノと

区別がつかないものが多いようです。下段の磔刑図はペルジーノの画風と

そっくりのラファエロの作品。師の優美な様式まで取得しているのが

分かります。

 

このブログで以前ご紹介した「聖母の結婚」にも、師と同じ様式に加え、

少し自分の画風を確立していくようなラファエロを見出すことができます。

egotisme.hatenablog.com

 

1495年頃からは師と一緒にウンブリアやマルケだけに留まらず、

ヴェネツィアにまで足を伸ばし、他の地域の芸術家たちと

交流をするようになりました。そこでラファエロの画風も少し変化が

表れます。

 

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1500年頃、北方の画家ヒエロニムス・ボスがヴェネツィアに滞在し、

イタリア人画家たちと交流していたようですが、そこに恐らくラファエロも

参加していた可能性があります。上の絵はそのヒエロニムス・ボスなどの

北方の影響と、ヴェネツィア派絵画の「光と影」の使い方が見受けられ、

優美さは残っているものの、ペルジーノの画風はどこかへ行ってしまったような

感じです。

 

その後ラファエロはルネサンス文化の中心フィレンツェへ行きます。

そこで巨匠レオナルドとミケランジェロの作品に遭遇するのです。

 

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  (レオナルド;聖アンナと聖母子)

 

ラファエロはレオナルドから人物の動作や表情、しぐさなどを学び、

ミケランジェロからは古典的なバランスを学んだと言われています。

このレオナルドの「聖アンナと聖母子」の絶妙なピラミッド型の

幾何学的な構図の中に人物が配置され、安定感が表現されているのを

ラファエロは自分の作品にどんどん取り込んでいきました。

 

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   (ラファエロ;牧場の聖母)

 

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 (レオナルド;岩窟の聖母の部分)

 

ラファエロの聖母子の典型的なピラミッド型構図や人物の動作など

レオナルドからの影響が色々と見られますね。

聖母の微笑みも、レオナルドのそれと酷似しつつも、レオナルドのような

神秘性はなく、ラファエロ特有の優美さが加わっている感じです。

 

またミケランジェロからの影響も大きく受けています。

 

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      (ミケランジェロ;ピエタ)

 

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       (ラファエロ;キリストの埋葬)

 

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デッサン力のあったラファエロはミケランジェロの彫刻を何度もデッサンし、

そして自分の作品に反映させていったことがよく分かります。

この「キリストの埋葬」で、キリストの足を持っているニコデモの身体は

まるでミケランジェロのダヴィデ像のようにたくましい肉体美で描かれています。

ここまでくると、もはや師だったペルジーノの画風とは全く違っています。

 

ミケランジェロはこうしてすぐに技術等を身につけて作品を仕上げる

ラファエロのことを「真似ばかりして気持ち悪い」と敬遠していたのだとか。

 

巨匠からの影響を次々と受け、その技術や画風を自分なりのやり方で表現していった

ラファエロですが、わずか37歳という若さで生涯を閉じました。

 


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ミラノの謎;四方山話 

ミラノ・ロンバルディア リソルジメント 歴史四方山話

ミラノの大聖堂ドゥオモと、そのドゥオモ広場に面して設計された
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世アーケード、通称「ガッレリア」は

19世紀に興ったリソルジメント(イタリア統一運動)の混乱後に
建築家ジュゼッペ・メンゴーニによって設計・建設された、ミラノの

シンボル的存在の美しいアーケードです。観光される方も、ここを通らないで

ミラノ観光をすることは、まずないと言っても過言ではないぐらい。

 

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このメンゴーニ氏、フォンタネーリチェというボローニャ近郊の小さな町で

生まれました。その後、名門ボローニャ大学を卒業し、エンジニアになり、
またボローニャ芸術学校へも通っていたという、芸術にも造詣が深い多才な

人物だったようで、ボローニャのCassa di Risparmio(貯蓄銀行)などの

美しい建物も彼が手がけました。

 

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(ジュゼッペ・メンゴーニ)

 

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1859年にミラノでガッレリア建設のための「設計コンクール」を開き、

それに176人の建築家や設計士が応募。その時の優勝者がメンゴーニ氏でした。


そして悲願のイタリア統一後、初代イタリア国王ヴィットーリオ・

エマヌエーレ2世の名前を冠した素晴らしいガッレリアにしようという事で

1865年から工事が始まり、約12年の歳月をかけて1877年に完成しました。

 

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(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世)

 

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   (建設途中の写真)

 

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    (完成後1880年頃の写真)

 

完成までほぼ順調にきて、当時はこの設計に賛否両論、色々と議論が

あったようですが、なんとか完成にこぎつけました。

見るも美しいガッレリアになり、さて次の日は国王にこのガッレリアを

お披露目するという時になった1877年12月30日。
なんとメンゴーニ氏、最終チェックのためにガッレリア上部を
視察中に50mの高さから落ちて亡くなってしまったのです!!!

 

12年もの歳月を費やし、明日はやっと国王へのお披露目という時に
本当に足をすべらせて落ちてしまったのだろうか・・・
もしかしたら誰かに恨まれて落とされてしまったのでは・・・
いや、もしかしたら自ら落ちたのかもしれない・・・
などなど色んな噂が飛び交ったことは想像に難くないですね。

 

この件に関しては色々な疑問があるようですが、大きくは3つ。

1、その時、誰も彼が落ちたところを見ていなかった
2、ガッレリアのデザインに反対派の批判が当時からかなりあって、
メンゴーニ氏はその批判にかなり精神的に参っていたらしい
3、肝心の 国王の体調がその時期あまり良くなく、お披露目式には
もしかしたら出席できない可能性があり、メンゴーニは「自分の事が
認められていないのだ」と悲観的になっていた

 

こうした理由から、メンゴーニが自殺したのか、他殺なのか、それとも

ただ足をすべらせただけなのか・・・100年以上経った今現在も、

理由はハッキリ分かっておらず、謎につつまれたミラノのガッレリアなのです。

    

そしてガッレリア完成10日後には、なんと国王もローマで亡くなり、
ミラノのガッレリアを国王はおそらく見ていないでしょう・・・

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今もミラノのガッレリア入り口には設計者ジュゼッペ・メンゴーニの
プレートがはめ込まれ、お披露目前日1877年12月30日に
ここで亡くなったと書かれています。なんとも切ないプレートです。

 

去年から、ガッレリア上部に備え付けられている約250メートルの長さの通路が

一般公開され、ミラノのパノラマが楽しめるようになりました。

オープン時間は毎日9時から21時までで、お天気の良い日はオススメです。

www.highlinegalleria.com

 

 


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ジョルジョーネの色調主義

イザベッラ・デステ イタリア絵画 トスカーナ ルネサンス レオナルド・ダ・ヴィンチ ヴェネツィア

16世紀、ヴェネツィアを中心とする北イタリアでは、フィレンツェなど

中部イタリアとは違う美術様式が生まれていました。

トスカーナ美術は素描が特徴で、ヴェネツィア美術のそれは彩色と言われます。

北イタリアではやはりレオナルド・ダ・ヴィンチの「スフマート」の影響が

非常に大きかったのだと思われます。

色彩と大気の様態の再現、油彩画ならではの豊かな筆致・・・

 

そうした技術をいち早く身につけ、ヴァザーリが「レオナルドの陰影の

精妙な味わいに感動し、生涯それを手本にした」と語ったヴェネツィア派の

代表ジョルジョーネをご紹介したいと思います。

 

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     (ジョルジョーネの自画像)

 

実は画家ジョルジョーネはその名声、影響力とともに甚大であったにもかかわらず、

その生涯について知られている事実は非常に少ないのです。また彼は作品にサインを

しなかったので、どれがジョルジョーネによるものなのかもハッキリとは分かって

いません。確実にジョルジョーネ作と確認されているのは、わずか6点ほど。また

生没年に関してすら先ほどのヴァザーリが記した『芸術家列伝』初版に1477年、

第2版に1478年生まれ、と書かれてあるだけです。

 

そのヴァザーリ曰く「ジョルジョーネは生まれは卑しかったが、終生礼儀正しかった。ヴェネツィアに育ち、常に女性を愛するのを好み、リュートを好み、彼がそれを吹き、歌を歌えば神的なもので、貴人たちの催す音楽の集いにしばしば召し出されるほどであった」と。こうした記述から、社交に長けていて、貴族からのプライベートな注文が

多かったことがうかがえます。

 

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また風景と人物が一体となった絵画を描いた最初の画家で、宗教や寓意、

歴史などの意味を持たない小作品という新しい絵画ジャンルの創始者でもあります。

上の絵も、一応タイトルは「3人の哲学者」ですが、未完だったのを当時の別の

画家が完成させたとも言われ、どこまでがジョルジョーネの筆によるかは不明です。

また主題すらも不明・・・3人いるので東方三博士を描いたという説があったり、

また哲学における流派を描いたという説があったり、色々な説があるのですが

どれも確実ではないようです。しかし注目すべきは、まるでこの絵画の主人公の

ように画面中央に広がる美しい風景。そして光と影による奥行き感。

色彩によって夕暮れのひと時を柔らかく表現しています。

 

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純潔のシンボルである月桂樹を背景にした若い女性の肖像「ラウラ」は

1506年の作品と言われています。伝統的なヴェネツィア絵画では「ラウラ」は

娼婦を暗示していました。この絵も胸をはだけている事などから、おそらく当時の

コルティジャーナを描いていると思われます。これを見て、ふと思い出すのが

レオナルド・ダ・ヴィンチの「ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像画」です。

 

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月桂樹と椰子に囲まれたセイヨウネズ (ginepro) の小枝はこのジネーヴラの名前 (Ginevra) を示唆しています。こうした背景に樹木を描き、その人物を表現する

方法をジョルジョーネはおそらくレオナルドから学んだと思われます。
ジョルジョーネが、もしレオナルドの作品を見たとすれば、1500年にレオナルドが

ヴェネツィアへ行った時だったでしょう。その際にきっと交流があったに

違いありません。ジョルジョーネの自画像などを見ても、レオナル ドの「聖ヨハネ」を思わせる明暗法を感じさせます。

 

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上の肖像画には、なんと2人の若者が描かれていますが、おそらく2人同時に

こうして描かれた肖像画というのはジョルジョーネ以前にはなかなかないのでは

ないでしょうか。詩的な感じさえ漂うこの絵をよく見ると、手前の若者の手には

果物(だいだい)が・・・この果物は少し苦くて甘酸っぱいことから、

「メランコリー」を意味するそうです。なるほど、この若者のメランコリックな

感情を表現していますよね。私の美術史の先生がおっしゃるには、こうした手に

果物という構図はその後カラヴァッジョに受け継がれていくとのこと。

 

フィレンツェやローマでは15世紀以来、物語や歴史が美術における主題の最高位に

置かれてきました。これに対し、北イタリアでは古典や聖書の物語に束縛されない

自由な表現を求めています。トスカーナ地方にいたヴァザーリは批判的にそのような

作品を「幻想;ファンタジーア」と呼び、画家の幻想が物語や歴史から分離することを問題視していたようです。


しかしマントヴァのイザベッラ・デステなどはそのような「ファンタジーア」の作品を欲しがっていました。同じイタリアでも、北と中部、南部では色々と「好み」も違ったのですね。北イタリアでは絵画はまさしく「詩;ポエジーア」である、という評論家

まで現れたと言われます。


ここでまたヴァザーリは「ジョルジョーネは幻想の赴くままに人間を描き、芸術上の

表現にのみ心を砕いた」と。だからヴァザーリには判断がつきかねたという意味

でしょうか。

 

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ジョルジョーネによって1510年頃に描かれた「眠れるヴィーナス」です。

これはもう、主題自体が当時としては異例でした。なぜなら、一人の裸の女性が

野外に横たわり、これだけの大きさの裸婦画は前例がなかったからです。

柔らかな色彩でまとめられた、のどかな田園地帯を背景に眠るヴィーナスの姿、

この絵画の構成はその後、長きに渡って、こうした横たわるヴィーナスの伝統の原点ともなりました。

ただこの作品も未完だったので、ティツィアーノの手が入っているようです。

(私の美術史の先生は赤いクッションやシーツの部分がジョルジョーネの筆というより

ティツィアーノっぽいとおっしゃってましたが、どうなのでしょう)

 

ヴェネツィアでは現実の感覚的な経験や人生の享楽的な味わいが好まれ、光や色の

ぼんやりした色調を段階的にぼかす(スフマート)ことにより描いた絵を

浮かび上がらせる、重ね塗りの技法が非常に発展しました。それを色調主義と呼びますが、フィレンツェをはじめとするトスカーナ地方ではデッサンと明暗法、遠近法が

駆使されていました。同じ「ルネサンス」期といっても、地域によって違いが

あるのですね。


イタリアの著名な美術史家ロベルト・ロンギは「ジョルジョーネの偉大さは

色彩のくつろぎにある」と。素敵な言葉だと思いませんか。

 

 残念ながら、ジョルジョーネはペストにかかり、1510年頃に32歳(または33歳)で

亡くなりました。

 

 


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