エゴチスムな日々

イタリアの閑暇そしてその悦楽

ベルニーニと視覚芸術

イタリアが生んだ天才芸術家は何人かいますが、その中でも

彫刻家であり、建築家であり、また視覚芸術の統合の実践者でもあった

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは17世紀最大の天才。

ローマで彼の作品に触れてファンになった方も多いのではないでしょうか。

 

今回は偉大なるベルニーニの初期の作品をご紹介したいと思います。

 

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    (ベルニーニの自画像)

 

ベルニーニは1598年、フィレンツェ出身の彫刻家ピエトロ・ベルニーニと

ナポリ人のアンジェリカ・ガランテの間にナポリで生まれました。

そして父ピエトロが法王パウロ5世のもとで働くためにローマへ移住します。

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ7歳の時でした。

 

ベルニーニはすぐにカッとなる傾向があったようですが、彼の自画像からも

「激情的」な印象を受けますよね。その反面とても真摯で社交的だったとか。

また頭の回転がはやく、少々「芝居がかった」ところもある人だったようです。

 

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      (サントーニの肖像)

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      (コッポラの肖像)

 

父ピエトロの工房を手伝ううちに、息子ジャン・ロレンツォの早熟な才能が

少しずつ法王やその甥ボルゲーゼ枢機卿に認められていきます。

サンタ・プラセーデ教会の「サントーニの肖像」や

サン・ジョヴァンニ・ディ・フィオレンティーニ教会の

「コッポラの肖像」などは、父ピエトロの工房に依頼がきて、まだ

10代前半だった息子ジャン・ロレンツォが制作したと言われていますが、

顔の表情のみならず、その個性までが表現されてるかのようです。

 

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上の写真はベルニーニが20歳頃に制作した「のろわれた魂」という

スゴイ題名が付いている作品なのですが、彫刻にこれほどの表情を

持ち込んだベルニーニの想像力に圧倒されます。

こうした表情はカラヴァッジョの「メドゥーサの首」などの

影響を受けているかもしれません。↓

 

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       (カラヴァッジョのメドゥーサ)

 

また「ミケランジェロの再来」といわれたベルニーニは同じく

ダヴィデ像をつくっています。

 

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ダヴィデが力いっぱいに石を投げる、まさにその瞬間を彫刻にしたもの。
私の美術史の先生はMolto Teatrale(非常に演劇的)という言葉を連発しました。
ダヴィデの表情も、いま、まさに投げんとするのが伝わってくる感じ。

いかにも激しい、動的な印象です。このダヴィデの表情はベルニーニ自身が

モデルだとも言われています。

 

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有名なミケランジェロのダヴィデ像ですが、ベルニーニのと比べ
16世紀と17世紀の違いがハッキリと分かります。

ミケランジェロのダヴィデは石を握ったまま「思考」して止まっている、

非常に静的な印象です。ダヴィデの存在そのものが非常に大切にされて

いる感じをものすごく受けます。そしてベルニーニのダヴィデは

それを見る者が、まるでそこで古代演劇が繰り広げられているかのような

視覚効果を与えているのだと思います。

 

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       (アポロとダフネ)

 

ベルニーニは古代研究に非常に熱心で、どんどん作品を制作していきました。

この「アポロとダフネ」は何がスゴイかと言えば、大理石の質感。

固い大理石のはずなのに軽やかな印象を与えています。

ダフネの肌は光が当たって輝くようですが、樹皮はザラザラとした質感が

印象的です。

 

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彫刻なのに絵画のような趣なのは、ベルニーニが彫刻において初めて「風」に

よる効果を与えたからでしょうか。またベルニーニの彫刻は360度どこから見ても

美しい・・・これは本当に素晴らしい技術ですね。

また非常に官能的な雰囲気を帯びているのもベルニーニの、そしてバロック時代の

特徴かもしれません。

 


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レオナルド・ダ・ヴィンチ 終焉の地

この夏はイタリアからモン・スニ峠を越え、約900kmの車の旅をしました。

行先はレオナルド・ダ・ヴィンチ終焉の地アンボワーズと彼が

人生の最後の3年間を過ごしたクロ・リュセ館です。

今年2016年はレオナルドが渡仏してからちょうど500年後にあたります。

 

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このクロ・リュセ館は1471年に建設され、ロワールの支流である

アマス川流域の田園地帯にあって、城館は広大な森林に囲まれています。

レオナルドをフランスまで呼び寄せたフランソワ1世の居城アンボワーズ城から

400メートルほど離れて建っています。

ここでレオナルドは1516年から1519年5月2日に逝去するまでの約3年間を

過ごしました。

 

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館の脇にある古い塔に上り、この回廊を渡って内部を見学します。

この赤レンガの回廊がイタリアっぽい感じがして、ここをレオナルドも

通り、この同じ景色を見ていたのかと思うと胸がドキドキしてきます。

 

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緑豊かで広大なお庭が広がっていて、本当に清々しい感じです。

フィレンツェなどの都市部ではこれだけ緑に囲まれることはないので、

レオナルドにとっては非常に喜ばしい環境なのではないかと思いました。

 

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この寝室でレオナルドは生涯最後の3年間を過ごしました。

ここで遺言も書いたと言われており、1519年5月2日に教会の秘跡を

受けた後、67歳で亡くなりました。

 

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ベッドの脇にアングルが描いた「レオナルド・ダ・ヴィンチの死」の複製が

飾られていました。レオナルドが亡くなった時、フランソワ1世がここにいたと

いう史実はないそうで(その時アンボワーズにいなかったと伝えられています)

この絵は19世紀の画家アングルの想像なのですが、レオナルドを非常に

慕っていたフランソワ1世の想いが伝わってくるような絵画だと思います。

 

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また寝室から見えるアンボワーズ城の、この眺めをレオナルドはとても

気に入っていたのだとか。この風景のデッサンなども残されているようです。

 

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聖カテリーナの肖像画が展示ケースの中にありました。これはレオナルドの

弟子ベルナルディーノ・ルイーニの作品です。この目の伏せ具合、口元の

描き方、レオナルドの影響を受けているのがハッキリと分かります。

その他、ルネサンス期に使われた日常品の展示。こういうコップやお皿で

レオナルドも食事していたのでしょう。

 

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寝室の横には、レオナルドが建築家、エンジニアとして多くのアイデアを生み出し、

したためていたアトリエが再現されていました。フランソワ1世のために発明した

道具やデザインの数々はこの部屋から生み出されたのでしょう。

何より印象的なのが、大きな窓から燦々と差し込む日の光。

ルネサンス期の館で、これほど光が溢れて明るい部屋を見た事がないので、

この館で静かな余生を過ごしたレオナルドは非常に幸福だったのではないかと

感じました。

もちろんイタリアを離れて淋しいと思う気持ちはあったでしょうけれど。

 

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当時の厨房も残されていました。レオナルドは弟子のほかに、専属の

料理人までイタリアから連れてきていたようです。彼女の名前はマトゥリーナ。

マトゥリーナはレオナルドにどんな料理をここで作っていたのでしょうか。

彼は菜食主義者だったらしいので、この大きな暖炉で猟肉を料理する際は

何か宴会などの時だけだったかもしれませんね。

 

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お庭側から見たクロ・リュセ館。赤レンガと石灰岩の組み合わせが印象的。

 

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ここはまたお庭が素晴らしかったです。手入れもよくされていて、

本当に気持ちの良い空間が広がっていました。

何より感動的だったのは知恵の樹の下にベンチが設けられていて、

その前にあるオーディオ(4ヶ国語に対応)のボタンを押すと

レオナルドが弟子たちに語りかけた考察が辺り一面に響き渡るのです!

ベンチに座りながらそれを聞いていると、すぐそこにレオナルドが

弟子を連れて散歩しているかのような錯覚に陥り、そしてウットリしてしまいました。

フランス人というのはこうした演出が、なんて上手な人たちなのでしょうか。

 

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この森の散歩道はレオナルドに画法へのインスピレーションをも

与えたに違いありません。こうした半透明のカンバスに描かれた彼の絵を

が光と影に彩られているのを見ると、

 

-理解するための最良の手段は、自然の無限の作品を鑑賞することだー

 

と言ったレオナルドの気持ちが少し分かるような気がしました。

 


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イタリアの小都市探訪 スポレート

イタリアの小都市はどこもそれぞれに魅力がありますが、

ウンブリア州にあるスポレートもまた忘れがたい町の一つ。

特に細い坂道を上り、ふと開けた広場に佇むように建っている、

午後の光に照らされた大聖堂を見た時の感動は忘れられません。

 

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スポレートは現在約4万人ほどが住む、ウンブリア州南部にある町。

紀元前7世紀にウンブロ族が集落を作ったのが始まりとされていて、

その後はローマ帝国の植民地となりました。なのでローマ時代の遺跡も

所々に残っています。下の写真はどっしりとしたドゥルソの門。

1世紀初め頃(23年頃)に建造されたもので、ここを通るとローマ時代に

フォロのあったメルカート広場へと続きます。

 

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大聖堂の中も必見です。フィリッポ・リッピの遺作となる

「聖母の戴冠」の美しい天井画に目を奪われます。

 

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フィリッポ・リッピはこの天井画を1468年にある程度まで完成させましたが、

その後病に伏し、翌年10月に亡くなりました。それから後は天井画部分を

息子のフィリッピーノ・リッピが、壁画部分は弟子のフラ・ディアマンテが

後を引き継ぎ完成させたと言われています。

 

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壁画の左側には「受胎告知」の絵があり、その聖母の顔は

画家が最も愛した女性ルクレツィア・ブティ(修道女だったルクレツィアを

リッピは見そめてしまい、絵のモデルに頼んだあげく、なんと駆け落ち

してしまった!というエピソードは有名)の顔で描かれています。

 

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床にも注目!大聖堂の中央身廊と後陣中央のモザイクの床は、

なんと12世紀のもの。おそらくコズマーティ様式だと思います。

コズマーティ様式とは12~14世紀にかけてローマで大理石装飾の技術に

長けたコズマ家が活躍し、その一族の名前を取ってコズマーティ様式と

呼ばれる装飾です。ローマだけでなく、ウンブリアでも活躍していた

のですね。

 

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スポレートの町は急な坂道も多く、また細い路地もあって

体力勝負・・・しかしウンブリアは実は食の方も満足できるのです♪

オリーブオイルや黒トリュフの名産地でもあります。

特にストランゴッツィというウンブリアのパスタに黒トリュフ・ソースを

かけたお料理は絶品でした。

 

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こういう名産品を取り扱ったお店も多いです。お土産探しにもピッタリ。

迷わずウンブリア産のオリーブオイルを買いました。これが爽やかで

サラダにかけてもピッタリの美味しさ!香りもほのかでお気に入りの1本と

なりました。

 

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スポレートのレストラン「Cuore&Sapore」のオーナーも

お料理にはこのマルフーガのオリーブオイルを使っていると

おっしゃってました。そこで食べた牛フィレ肉トリュフ・ソースも

忘れられない1皿になりました。

 

 


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絵画の中のファッション

以前ブログでご紹介したブロンズィーノ描くエレオノーラ・ダ・トレドの

肖像画。その時にドレスに使われている美しい布地について少し触れましたが、

今回はその袖からポコポコとはみ出ている、白い布について書きたいと思います。

 

egotisme.hatenablog.com

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美しい袖の布地の切れ目からはみ出ている白い布地・・・

ルネサンス時代のドレスの袖は常に取り外しができるようになっていて

そこだけ取り替えたりしていたようですね。その縫い合わされていない

布と布の間から下に着ている白い服がはみ出しているのです。

 

この白い服はずばり「下着」です!

当時はリネン製の白い下着を着ていたようで、色々な肖像画を見れば、この

白い下着がいかに大切だったかが分かります。

 

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ティツィアーノ描く1514年頃の肖像画にもポコポコと袖から白い布が

はみ出していますね。まるでそれがアクセントになっているかのようです。

 

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もちろん女性だけでなく、男性の衣装にも同じように下着がはみ出るような

袖の仕組みになっています。これはフランソワ1世の肖像画です。

よく見れば袖だけでなく、前身ごろからも白い布がはみ出ていますね。

フランソワ1世のオシャレ心だったのでしょうか。

 

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こちらは1530年頃のバルトロメオ・ヴェネトが描いた肖像画。

光沢のある美しい表着が故意に切られ、その隙間から白い下着がのぞくような

形になっています。

 

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これはラファエロが描いた1516年頃の肖像画。こちらはポコポコと、というよりも

大きく切れた布地からチラリと見える感じの袖になっています。

豪華な衣装の隙間からこうして白い下着をのぞかせる流行がルネサンス期に

あったということが分かります。現在もジーンズなどを切り裂くような

流行がありますが、ルネサンス期にも上の絵にあるように「切り裂いた袖」が

大流行したのだそうです。意外な所で現代との共通点が見えて面白いですね。

 

こうしたリネンの下着は、中世頃からなんと19世紀の末まで、ほとんど形の変化なく

男女ともほぼ同型で使用されていたのだとか。ヨーロッパで木綿が一般的になるのは

19世紀はじめ頃。それまではリネンだけだったのですね。

 

リネンは下着だけでなく、ファッションにとって不可欠だったレースの材料でも

ありました。このルネサンス時代に流行ったドーナツ状の襞襟もリネン製です。

 

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言わずと知れたエリザベス女王1世の肖像画。この襟を「ラフ」と呼びます。

主に16世紀から17世紀頃にヨーロッパ中で流行したようですが、

特にスペインやオランダで大流行しました。

エリザベス女王のラフも美しいですけど、袖や前身ごろから

白い下着が出ていますね。この肖像画が1575年頃に描かれているのを考えれば

これがかなり長い間ヨーロッパ中で大流行していたということが分かります。

 

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1606年頃のルーベンス描く肖像画です。17世紀になると袖からポコポコと

白い下着が見えるのがなくなって、襞襟だけがやたらと強調されています。

 

このラフは(また下着も)白色だから汚れやすく、それを常に真っ白に

保っておくのは手間暇のかかることだったでしょう。もちろん庶民や農民には

そんな白い下着をつけるような贅沢は出来なかったと思います。

だからこそ、こうした肖像画でもより強調して描かれているのではないでしょうか。

当時はラフの形を保ち常に白い状態を維持するため専用の召使まで存在したとか!

つまり白い下着をはみ出させ、ラフの美しい形を保った姿を肖像画に残すのは

それだけ「服それ自体の価値」を誇示し、贅沢な行為であることを知らせるという

役割もあったのでしょうね。

 


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ラファエロ;巨匠からの影響

美術史では、1520年のラファエロの死を以て「ルネサンスの終わり」と

し、その後の様式「マニエリスム」へと変化していきます。

そんな一つの重要な区切りを担う画家ラファエロは1483年にウルビーノで

生まれました。

 

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彼の父親も画家であり、また母親は裕福な商人の娘で、その間に

生まれたラファエロは当時としては珍しく母乳で育てられたと

言われています。これはヴァザーリが『芸術家列伝』の中で

「ミケランジェロが母乳ではなく、乳母の乳によって育てられ、それが

石工の妻であったために彫刻家になった」という記述と対照してみると

面白いですね。

 

ラファエロの父は彼が11歳の時に亡くなり(母親は彼が8歳の時に

亡くなっていました)孤児になりましたが、その頃ちょうどペルージャの

ペルジーノの工房へ弟子入りすることになります。

 

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     (ペルジーノ作)

 

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    (ラファエロ作)

 

この磔刑図(上)は師ペルジーノのものですが、ラファエロは非常に

素描力に優れていたようで、どんな絵や技法であれ、直ちに自分の物に

できたのだとか。 この修業時代のラファエロの絵は師のペルジーノと

区別がつかないものが多いようです。下段の磔刑図はペルジーノの画風と

そっくりのラファエロの作品。師の優美な様式まで取得しているのが

分かります。

 

このブログで以前ご紹介した「聖母の結婚」にも、師と同じ様式に加え、

少し自分の画風を確立していくようなラファエロを見出すことができます。

egotisme.hatenablog.com

 

1495年頃からは師と一緒にウンブリアやマルケだけに留まらず、

ヴェネツィアにまで足を伸ばし、他の地域の芸術家たちと

交流をするようになりました。そこでラファエロの画風も少し変化が

表れます。

 

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1500年頃、北方の画家ヒエロニムス・ボスがヴェネツィアに滞在し、

イタリア人画家たちと交流していたようですが、そこに恐らくラファエロも

参加していた可能性があります。上の絵はそのヒエロニムス・ボスなどの

北方の影響と、ヴェネツィア派絵画の「光と影」の使い方が見受けられ、

優美さは残っているものの、ペルジーノの画風はどこかへ行ってしまったような

感じです。

 

その後ラファエロはルネサンス文化の中心フィレンツェへ行きます。

そこで巨匠レオナルドとミケランジェロの作品に遭遇するのです。

 

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  (レオナルド;聖アンナと聖母子)

 

ラファエロはレオナルドから人物の動作や表情、しぐさなどを学び、

ミケランジェロからは古典的なバランスを学んだと言われています。

このレオナルドの「聖アンナと聖母子」の絶妙なピラミッド型の

幾何学的な構図の中に人物が配置され、安定感が表現されているのを

ラファエロは自分の作品にどんどん取り込んでいきました。

 

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   (ラファエロ;牧場の聖母)

 

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 (レオナルド;岩窟の聖母の部分)

 

ラファエロの聖母子の典型的なピラミッド型構図や人物の動作など

レオナルドからの影響が色々と見られますね。

聖母の微笑みも、レオナルドのそれと酷似しつつも、レオナルドのような

神秘性はなく、ラファエロ特有の優美さが加わっている感じです。

 

またミケランジェロからの影響も大きく受けています。

 

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      (ミケランジェロ;ピエタ)

 

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       (ラファエロ;キリストの埋葬)

 

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デッサン力のあったラファエロはミケランジェロの彫刻を何度もデッサンし、

そして自分の作品に反映させていったことがよく分かります。

この「キリストの埋葬」で、キリストの足を持っているニコデモの身体は

まるでミケランジェロのダヴィデ像のようにたくましい肉体美で描かれています。

ここまでくると、もはや師だったペルジーノの画風とは全く違っています。

 

ミケランジェロはこうしてすぐに技術等を身につけて作品を仕上げる

ラファエロのことを「真似ばかりして気持ち悪い」と敬遠していたのだとか。

 

巨匠からの影響を次々と受け、その技術や画風を自分なりのやり方で表現していった

ラファエロですが、わずか37歳という若さで生涯を閉じました。

 


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ミラノの謎;四方山話 

ミラノの大聖堂ドゥオモと、そのドゥオモ広場に面して設計された
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世アーケード、通称「ガッレリア」は

19世紀に興ったリソルジメント(イタリア統一運動)の混乱後に
建築家ジュゼッペ・メンゴーニによって設計・建設された、ミラノの

シンボル的存在の美しいアーケードです。観光される方も、ここを通らないで

ミラノ観光をすることは、まずないと言っても過言ではないぐらい。

 

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このメンゴーニ氏、フォンタネーリチェというボローニャ近郊の小さな町で

生まれました。その後、名門ボローニャ大学を卒業し、エンジニアになり、
またボローニャ芸術学校へも通っていたという、芸術にも造詣が深い多才な

人物だったようで、ボローニャのCassa di Risparmio(貯蓄銀行)などの

美しい建物も彼が手がけました。

 

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(ジュゼッペ・メンゴーニ)

 

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1859年にミラノでガッレリア建設のための「設計コンクール」を開き、

それに176人の建築家や設計士が応募。その時の優勝者がメンゴーニ氏でした。


そして悲願のイタリア統一後、初代イタリア国王ヴィットーリオ・

エマヌエーレ2世の名前を冠した素晴らしいガッレリアにしようという事で

1865年から工事が始まり、約12年の歳月をかけて1877年に完成しました。

 

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(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世)

 

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   (建設途中の写真)

 

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    (完成後1880年頃の写真)

 

完成までほぼ順調にきて、当時はこの設計に賛否両論、色々と議論が

あったようですが、なんとか完成にこぎつけました。

見るも美しいガッレリアになり、さて次の日は国王にこのガッレリアを

お披露目するという時になった1877年12月30日。
なんとメンゴーニ氏、最終チェックのためにガッレリア上部を
視察中に50mの高さから落ちて亡くなってしまったのです!!!

 

12年もの歳月を費やし、明日はやっと国王へのお披露目という時に
本当に足をすべらせて落ちてしまったのだろうか・・・
もしかしたら誰かに恨まれて落とされてしまったのでは・・・
いや、もしかしたら自ら落ちたのかもしれない・・・
などなど色んな噂が飛び交ったことは想像に難くないですね。

 

この件に関しては色々な疑問があるようですが、大きくは3つ。

1、その時、誰も彼が落ちたところを見ていなかった
2、ガッレリアのデザインに反対派の批判が当時からかなりあって、
メンゴーニ氏はその批判にかなり精神的に参っていたらしい
3、肝心の 国王の体調がその時期あまり良くなく、お披露目式には
もしかしたら出席できない可能性があり、メンゴーニは「自分の事が
認められていないのだ」と悲観的になっていた

 

こうした理由から、メンゴーニが自殺したのか、他殺なのか、それとも

ただ足をすべらせただけなのか・・・100年以上経った今現在も、

理由はハッキリ分かっておらず、謎につつまれたミラノのガッレリアなのです。

    

そしてガッレリア完成10日後には、なんと国王もローマで亡くなり、
ミラノのガッレリアを国王はおそらく見ていないでしょう・・・

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今もミラノのガッレリア入り口には設計者ジュゼッペ・メンゴーニの
プレートがはめ込まれ、お披露目前日1877年12月30日に
ここで亡くなったと書かれています。なんとも切ないプレートです。

 

去年から、ガッレリア上部に備え付けられている約250メートルの長さの通路が

一般公開され、ミラノのパノラマが楽しめるようになりました。

オープン時間は毎日9時から21時までで、お天気の良い日はオススメです。

www.highlinegalleria.com

 

 


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ジョルジョーネの色調主義

16世紀、ヴェネツィアを中心とする北イタリアでは、フィレンツェなど

中部イタリアとは違う美術様式が生まれていました。

トスカーナ美術は素描が特徴で、ヴェネツィア美術のそれは彩色と言われます。

北イタリアではやはりレオナルド・ダ・ヴィンチの「スフマート」の影響が

非常に大きかったのだと思われます。

色彩と大気の様態の再現、油彩画ならではの豊かな筆致・・・

 

そうした技術をいち早く身につけ、ヴァザーリが「レオナルドの陰影の

精妙な味わいに感動し、生涯それを手本にした」と語ったヴェネツィア派の

代表ジョルジョーネをご紹介したいと思います。

 

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     (ジョルジョーネの自画像)

 

実は画家ジョルジョーネはその名声、影響力とともに甚大であったにもかかわらず、

その生涯について知られている事実は非常に少ないのです。また彼は作品にサインを

しなかったので、どれがジョルジョーネによるものなのかもハッキリとは分かって

いません。確実にジョルジョーネ作と確認されているのは、わずか6点ほど。また

生没年に関してすら先ほどのヴァザーリが記した『芸術家列伝』初版に1477年、

第2版に1478年生まれ、と書かれてあるだけです。

 

そのヴァザーリ曰く「ジョルジョーネは生まれは卑しかったが、終生礼儀正しかった。ヴェネツィアに育ち、常に女性を愛するのを好み、リュートを好み、彼がそれを吹き、歌を歌えば神的なもので、貴人たちの催す音楽の集いにしばしば召し出されるほどであった」と。こうした記述から、社交に長けていて、貴族からのプライベートな注文が

多かったことがうかがえます。

 

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また風景と人物が一体となった絵画を描いた最初の画家で、宗教や寓意、

歴史などの意味を持たない小作品という新しい絵画ジャンルの創始者でもあります。

上の絵も、一応タイトルは「3人の哲学者」ですが、未完だったのを当時の別の

画家が完成させたとも言われ、どこまでがジョルジョーネの筆によるかは不明です。

また主題すらも不明・・・3人いるので東方三博士を描いたという説があったり、

また哲学における流派を描いたという説があったり、色々な説があるのですが

どれも確実ではないようです。しかし注目すべきは、まるでこの絵画の主人公の

ように画面中央に広がる美しい風景。そして光と影による奥行き感。

色彩によって夕暮れのひと時を柔らかく表現しています。

 

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純潔のシンボルである月桂樹を背景にした若い女性の肖像「ラウラ」は

1506年の作品と言われています。伝統的なヴェネツィア絵画では「ラウラ」は

娼婦を暗示していました。この絵も胸をはだけている事などから、おそらく当時の

コルティジャーナを描いていると思われます。これを見て、ふと思い出すのが

レオナルド・ダ・ヴィンチの「ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像画」です。

 

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月桂樹と椰子に囲まれたセイヨウネズ (ginepro) の小枝はこのジネーヴラの名前 (Ginevra) を示唆しています。こうした背景に樹木を描き、その人物を表現する

方法をジョルジョーネはおそらくレオナルドから学んだと思われます。
ジョルジョーネが、もしレオナルドの作品を見たとすれば、1500年にレオナルドが

ヴェネツィアへ行った時だったでしょう。その際にきっと交流があったに

違いありません。ジョルジョーネの自画像などを見ても、レオナル ドの「聖ヨハネ」を思わせる明暗法を感じさせます。

 

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上の肖像画には、なんと2人の若者が描かれていますが、おそらく2人同時に

こうして描かれた肖像画というのはジョルジョーネ以前にはなかなかないのでは

ないでしょうか。詩的な感じさえ漂うこの絵をよく見ると、手前の若者の手には

果物(だいだい)が・・・この果物は少し苦くて甘酸っぱいことから、

「メランコリー」を意味するそうです。なるほど、この若者のメランコリックな

感情を表現していますよね。私の美術史の先生がおっしゃるには、こうした手に

果物という構図はその後カラヴァッジョに受け継がれていくとのこと。

 

フィレンツェやローマでは15世紀以来、物語や歴史が美術における主題の最高位に

置かれてきました。これに対し、北イタリアでは古典や聖書の物語に束縛されない

自由な表現を求めています。トスカーナ地方にいたヴァザーリは批判的にそのような

作品を「幻想;ファンタジーア」と呼び、画家の幻想が物語や歴史から分離することを問題視していたようです。


しかしマントヴァのイザベッラ・デステなどはそのような「ファンタジーア」の作品を欲しがっていました。同じイタリアでも、北と中部、南部では色々と「好み」も違ったのですね。北イタリアでは絵画はまさしく「詩;ポエジーア」である、という評論家

まで現れたと言われます。


ここでまたヴァザーリは「ジョルジョーネは幻想の赴くままに人間を描き、芸術上の

表現にのみ心を砕いた」と。だからヴァザーリには判断がつきかねたという意味

でしょうか。

 

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ジョルジョーネによって1510年頃に描かれた「眠れるヴィーナス」です。

これはもう、主題自体が当時としては異例でした。なぜなら、一人の裸の女性が

野外に横たわり、これだけの大きさの裸婦画は前例がなかったからです。

柔らかな色彩でまとめられた、のどかな田園地帯を背景に眠るヴィーナスの姿、

この絵画の構成はその後、長きに渡って、こうした横たわるヴィーナスの伝統の原点ともなりました。

ただこの作品も未完だったので、ティツィアーノの手が入っているようです。

(私の美術史の先生は赤いクッションやシーツの部分がジョルジョーネの筆というより

ティツィアーノっぽいとおっしゃってましたが、どうなのでしょう)

 

ヴェネツィアでは現実の感覚的な経験や人生の享楽的な味わいが好まれ、光や色の

ぼんやりした色調を段階的にぼかす(スフマート)ことにより描いた絵を

浮かび上がらせる、重ね塗りの技法が非常に発展しました。それを色調主義と呼びますが、フィレンツェをはじめとするトスカーナ地方ではデッサンと明暗法、遠近法が

駆使されていました。同じ「ルネサンス」期といっても、地域によって違いが

あるのですね。


イタリアの著名な美術史家ロベルト・ロンギは「ジョルジョーネの偉大さは

色彩のくつろぎにある」と。素敵な言葉だと思いませんか。

 

 残念ながら、ジョルジョーネはペストにかかり、1510年頃に32歳(または33歳)で

亡くなりました。

 

 


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ミラノの邸宅美術館;ポルディ・ペッツォーリ美術館

ミラノには邸宅美術館と呼ばれる美術館が4軒ほどありますが

その中でも一番有名なのがこのポルディ・ペッツォーリ美術館。

中は当主であったジャン・ジャコモが欧州中から蒐集した美術品が

展示されていて、一見の価値あり。

1881年から一般公開されている古い美術館です。

 

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ミラノの名門貴族トリヴルツィオ家のローザと
19世紀当時オーストリア政府への最大の納税者として有名だった
ポルディ・ペッツォーリ家ジュゼッペの息子として
ジャン・ジャコモ・ポルディ・ペッツォーリは1822年7月27日に

生を受けました。

 

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早くに父を亡くしたジャン・ジャコモへの教育は芸術に造詣の
深かった母ローザが献身的に教授したようです。
そしてそれまでのトリヴルツィオ家所蔵の芸術品、様々な手稿、
工芸品にも彼は幼い頃から囲まれて暮らしていました。

審美眼はそうして培われていったのでしょうね。

1846年24歳になったジャン・ジャコモは当時の貴族の子息が

するようにヨーロッパ中を旅します。その土地、土地であらゆる

芸術を見聞し、そして自らも蒐集を始めるようになりました。

ボッティチェッリやピエロ・デッラ・フランチェスカ、ポッライオーロ、

マンテーニャなどのイタリア人画家の作品を次々に蒐集していきます。

 

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こちらはジャン・ジャコモが蒐集したボッティチェッリの

「書物の聖母」で、このブログでご紹介しています。

 

egotisme.hatenablog.com

 

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そしてヴェネツィア派の代表ジョヴァンニ・ベッリーニの

「ピエタ」、背景に風景が描きこまれています。

 

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ピエロ・デル・ポッライオーロの「貴婦人の肖像」は

古典的なプロフィールの美しい作品。

髪の毛一本、一本まで丁寧に描かれているのが印象的。

 

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マンテーニャの「聖母子像」はビザンチンの影響が遠ざかり、

聖母もキリストも本当の人間に近づいています。

何より、この絵はキリストの愛おしい表情に釘づけです・・・

 

ちょうどその当時、ロンドンやパリなどの大都市では

「蒐集した貴重な美術品を邸宅に飾り、まるで美術館のように

公開する」ということが流行していたようですね。

このブログでもご紹介したパリの邸宅美術館もそうしたものの

一つだと思います。

egotisme.hatenablog.com


そこでジャン・ジャコモもこれに続けとばかりに、ミラノへ戻ってきてから
1849年にポルディ・ペッツォーリ家を友人たちに公開しました。

 

階段や寝室はバロック様式に、「黒いサロン」と名付けられた部屋は
ルネサンス初期の様式に、書斎は14世紀をイメージ、そして武器や武具の
部屋はかなり広いスペースを用意する・・・などなど様々な様式を

折衷し、イタリア中、ヨーロッパ中から集めた彼のお目がねに叶った

美術品が飾られました。
招待された芸術家や友人たちは賞賛の声を惜しまなかったと言います。

 

1879年ジャン・ジャコモは57年の生涯を閉じました。

 

その後この美術館は第2次世界大戦中,連合軍による
ミラノ爆撃によって天井、壁、美しい天窓、備え付けの素晴らしい
調度品などが破損するという被害を被ります。
戦争が始まったときに絵画や工芸品(持ち運びできるものは全て)は
別の場所に非難させておいて無事だったのが、不幸中の幸いでしょう。

 

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これら爆撃前に撮ってあった写真などを参考に、戦後それこそ気が

遠くなるような修復・復元作業を続けてポルディ・ペッツォーリ美術館は
1951年、再びよみがえります。


そして現在も当時の面影が少し残る中、ジャン・ジャコモが財の限りを

尽くして蒐集した美しい美術品が一緒に楽しめる美術館として

一般公開されています。

 


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カラヴァッジョの静物画 果物籠 

ミラノのアンブロジアーナ絵画館にあるカラヴァッジョの「果物籠」。

先月、かなり久しぶりに鑑賞する機会に恵まれました。

以前観た時と展示位置や照明が変わったので、今までもっと「黄色い」

イメージがあった作品ですが、薄いクリーム色というか白っぽいイメージに

変化した気がするのは私だけでしょうか。

 

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こうした静物画という画題が独立した絵画ジャンルとなる一歩を

踏み出したのは16世紀半ばのことです。

ただ当時、絵画はジャンルごとに等級化されていて、最高のジャンルは

もちろん宗教画、そして歴史画、肖像画、風景画、風俗画という順番でした。

そして最下級に静物画が置かれていました。これは花や果物などの存在する

領域が「卑しい現実」と思われていたこと。そして絵画技術においてもっとも

高級なのが人体描写、人間を主題とする「意味をもつ」大画面を構成すると

いうことが画家の使命でもあったわけです。

 

当時(それ以降も)は静物画の担い手に女性画家が多かったのも、残念ながら

「女にも出来る職人仕事」だと思われていたからです。また、女性は裸体の

写生を禁じられていましたので、人体表現の訓練が出来なかったということも

あります。

 

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(オッタヴィオ・レオーニ作カラヴァッジョの肖像)

 

話が逸れてしまいましたが、カラヴァッジョはそういう風潮があった

当時に「花の絵を描くことと、聖母の絵を描くことは同じ価値がある」と

言っています。非常に新しい(変わった?)考え方だったでしょうね。

 

カラヴァッジョの「エマオの晩餐」について以前このブログでもご紹介

しましたが、↓

egotisme.hatenablog.com

そこでもカラヴァッジョは果物籠を描いていますが、テーブルの端から

今にも落ちそうな感じで描かれているのが気になりますね。

そしてアンブロジアーナ絵画館にある「果物籠」も、よく見ると

台の端にはみ出して描かれているのです。

 

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台座からはみ出すように人物や物を置くということは、ルネサンス時代から

描かれていました。これは「浮彫効果」を狙うためだったとも言われます。

またこうして不安定な状態に置くことによって、安定した土台にない、つまり

危ない、脆い存在であるとの表現かもしれません。

 

西洋文化において、果物といえば、アダムとエヴァが食べた知恵の樹の実。

そして果物は人間の五感のひとつ、味覚の寓意でもありました。果物は甘く、

虫が食いやすい、また腐りやすいものと考えられ、甘美ながら束の間の

「快楽」の寓意としても考えられてきたようです。

 

カラヴァッジョの「果物籠」にも林檎の所々に虫の食った跡が。

これはすでに退廃の始まりを意味しているのだとか。

またブドウの葉もみずみずしく描かれているものと、枯れ始めている

葉も見受けられます。それはブドウの汁気を多く含んだ輝くような実と

対比して、まるでカサカサとした音まで聞こえそうです。

 

静物という具体的なものをこうして描くことによって「世俗的快楽の

はかなさ」という観念を表現するという方法は、最後の晩餐などの

宗教画の中から次第に生まれ、そして発展してきました。

 

イタリアはルネサンス以来、宗教画や人物像の伝統を頑なに守って

きました。そんな中でカラヴァッジョの「果物籠」は初めての独立した

静物画だったのです。

 

参考文献; 三浦篤 『まなざしのレッスン1』

      若桑みどり 『絵画を読む イコノロジー入門』

      田中英道 『イタリア美術史』

      http://www.ambrosiana.eu/cms/

 

 


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マザッチョの革新性

フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会の中にある

ブランカッチ礼拝堂。ここに描かれたマザッチョの壁画は

「絵画の学校」とも呼ばれ、後のレオナルドも、ラファエロも、

そしてミケランジェロも足しげく通っては模写したと伝えられています。

 

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マザッチョは「絵画の本質は生きている自然をあるがままに、デッサンと

色彩で飾り気なく、出来る限り正確に再現することだ」と考えていました。

この考えこそが、ルネサンス美術の基本的な姿勢であり、自然模倣そして

現実再現を目指したマザッチョが、このブランカッチ礼拝堂で見事に

表現したといえます。

 

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マザッチョは建築家ブルネレスキが試みた線遠近法を駆使し、ひとつの

光源(窓から差し込む光)を想定して、陰影も投影も描いています!

約1世紀前のジョットにはこの「投影」という試みはありませんでした。

 

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(ジョットの有名な「ユダの接吻」には陰影で体のボリューム感は

表現されていても、投影は描かれていません)

 

そしてもっとも素晴らしいのが「楽園追放」のアダムとエヴァ。

 

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彼らの足元にも影があり、奥行きのある空間を表現しています。

追放されるエヴァの表情・・・二度と取り戻すことのできない至福の日々、

浅はかであった自らの行為は悔やんでも悔やみきれないという嘆きが凝縮され、

一度見たら二度と忘れられないような印象的な表情。その横で絶望のあまり

顔を覆うアダム。何度見ても感動的なシーンです。


こうした奥行きのある空間や激しい感情表現こそ、ルネサンス美術が

新たに獲得したもので、まさにマザッチョこそがその先駆者にふさわしいと

言えるでしょう。

 

マザッチョといえば忘れてはいけないのがナポリにあるキリスト磔刑図。

 

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マグダラのマリアが、なんと後ろ向きで若干大げさともいえる

ジェスチャーで嘆きの表現がされていますが、こうした後ろ姿で

マグダラのマリアが描かれたのは、おそらくこの絵が初めてとの事。

当時としては新しくかつ大胆な試みだったのではないでしょうか。

 

またこのキリストの体の表現方法もそれまでと違って、どうも

見る人の視点(つまり下から上を向いてこの絵を見る)を考慮し、

描いているように見受けられます。

 

そうした見る人の視点を考えた作品の主要なものがこちら。

ご存じ、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「三位一体」です。

 

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この磔刑図の背景はゴルゴダの丘ではなく、ブルネレスキ風の

美しいアーチの建築が活かされている空間。完ぺきな遠近法で

描かれていて、奥行きを感じさせます。

キリストの顔は理想化された顔ではなく、人間らしい顔であることも

特徴でしょう。何より、聖母マリアの顔が、フィレンツェの町中を

歩いている、普通の女性のような表情なのです!

 

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そして、このしぐさ。聖母のこうした見る人への注意をどことなく

促すように描かれているのも、実はこの絵が初めてなのです!

 

ヴァザーリは「マザッチョはいつも雲の上にいるようで、心はいつも芸術にあり、

自分のことはもとより、他人のことも全く構わなかった」と書いています。

なるほど、少しマザッチョが理解できるような気がしますね。

 

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マザッチョの自画像と言われていますが、意思の強そうな瞳が印象的。

彼は1401年12月21日に生まれ、なんと27歳という若さで亡くなりました。

またまたヴァザーリの言ですが「毒殺以外に死因は考えられないという

人に事欠かない」とか。素晴らしい才能に嫉妬した誰かが毒を盛ったの

でしょうか・・・それとも、他人のことにも構わない無頓着なマザッチョ

だったので、敵が案外多かったのでしょうか・・・

 

いずれにせよ、マザッチョの「自然主義」がルネサンスの出発点であること

には間違いがないようです。

 


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