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エゴチスムな日々

イタリアの閑暇そしてその悦楽

モディリアーニとジャンヌの破滅的愛

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モディリアーニの絵には、どことなく不思議な感じと、単純な構図なのに

ひと目見た瞬間なぜか忘れられなくなるような強烈さを併せ持っているように

思えます。よく知られているように彼の作品はアフリカなどの原始美術の影響と

中世のシエナ派など、イタリアの古典芸術を融合させ、顔と首が長い独自の

表現が特徴で、この長い首がなぜか目に焼き付いて離れないからかもしれません。

 

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モディリアーニが彫刻家志望になったのは、このシエナ派の彫刻家

ティーノ・ディ・カマイーノ(1285 - 1337)の作品を見て感動してから、と

言われています。なるほど、カマイーノの彫刻の特徴と、モディリアーニ描く

肖像画の特徴が似ているような気がします。

 

ただ、彫刻家を目指すには、モディリアーニはあまりに病弱で、

そしてあまりに貧乏でした。石を彫った時の粉塵は患っていた結核に致命的で、

木彫に変えたようですが、その木材すら材料費等を調達できず、

近くの工事現場から木材を盗んできて、彫ったりしたこともあったようです。

彫刻家を諦めなければならなかったモディリアーニの失望は

どれほど大きく深いものだったでしょう。

 

後年描いた肖像画に、瞳を描かないことがあるのも、こうした彫刻への

想いがあったからかもしれません。

 

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力強い瞳で、画面の中から絵を見るものをじっと見つめ返すのは

モディリアーニの若妻ジャンヌ。

ジャンヌは少女時代から、中世の聖母を思わせる美貌を称えられていたようです。

 

二人の出会いは1917年、18歳だったジャンヌは初々しい画学生。

一方のモディリアーニは彫刻家を諦め、32歳の売れない画家。

子供の頃からチフスや結核といった大病に見舞われる虚弱体質でありながら、

モンマルトルで知り合った画家仲間たちと、毎晩やけ酒を飲み、

詩人や作家の女性たちとの平穏とは言えぬ交際を始めては、喧嘩別れに終わると

いうような恋愛の数々、そんな荒んだ生活に疲れていました。

 

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破滅的な人生を送っていたモディリアーニに光をあてたジャンヌ。

中世の聖母を思わせる彼女から、モディリアーニはカマイーノの彫刻を見た時の

感動を思い出したのかもしれません。

 

彼女を描いた24枚の肖像画を見ると、数もさることながら、

この女性が彼にとってどれほど大切なパートナーであったかが分かります。

1918年5月、ドイツ軍がパリへ向かって侵攻をはじめると、二人はパリを離れて

南仏ニースへ一時的に避難をしました。

この頃が、二人にとって一番落ち着いた、穏やかな生活でした。

 

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ニースの太陽を思わせるようなセーターの黄色と、柔らかなふくらみが

示しているように、この頃ジャンヌはモディリアーニの子供を身ごもっています。

この絵を見ると、カマイーノの彫刻の影響を思わずにはいられません。

そしてモディリアーニがジャンヌの中に、その遠い感動の思い出を見続けながら

描き続けたことも。

生まれた子供(娘)は、母と同じ名前ジャンヌと名付けられたようです。

 

1920年1月24日、激しい吐血を繰り返したモディリアーニは、意識不明のまま

息を引き取りました。享年35歳。

正式な結婚をすることもなく、2人目の子供を宿していたジャンヌ。

この世に居場所を失った21歳の未婚の母は、モディリアーニが亡くなった

その2日後の未明5時、集合住宅の5階の窓から身を投げました。

 

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自らも後を追うことを、まるで察知していたかのように、

最近発見されたジャンヌの作品の中に「自殺」という絵があります。

どんな思いで、この絵を描いたのでしょうか。そして実際にその通りのことが

起こってしまうとは・・・

 


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