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エゴチスムな日々

イタリアの閑暇そしてその悦楽

史上2人目の女性教授アニェージ

今回は18世紀に活躍したミラノの女性をご紹介します。

 

1718年5月16日、ハプスブルグ家カール6世支配下のミラノで
生を受けたマリア・ガエタナ・アニェージ。

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父ピエトロ・アニェージは絹産業で財を築き、子供たちへの教育にも非常に
熱心で、特にマリアは5歳ですでにイタリア語とフランス語を、9歳の時には

ラテン語で「女性が教育を受ける権利」についての1時間のスピーチをし、

13歳までにドイツ語、スペイン語、ギリシャ語、そしてヘブライ語を取得!
当時「歩く辞書」と呼ばれるほど、その才能はとどまるところを知らず。

(サラッと書きましたけど、いや、スゴイ才能ですよね・・・)

アニェージ家のサロンには様々なミラノの知識人が集い、華やかな議論が、

自由闊達に行われていたことでしょう。
もちろん、そこには当時15歳のマリアの姿も欠かせませんでした。
しかし才女マリアは父親に「修道院に入りたい」と言い続けていたようです。

当時の女性の選択肢が、結婚か修道院か、という悲しい状況だったことが

彼女の言葉からも察せられます。

しかし、彼女の父親は「それはもったいないからダメだ」と拒否しているんですね。

この父親の言葉は、かなり革新的ではないでしょうか。

父ピエトロは2度の結婚で21人(!)の子供を授かっており、年長であったマリアは

これら兄弟たちの教育係までも請け負っていました。
その合間をぬって、微分・積分の研究にも打ち込むようになります。

 

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22歳の時に数学のラミーロ教授に師事し、彼の協力を得て1748年に
数学の概説書 『Instituzioni analitiche』をミラノで出版するに至ります。

これを見たマリア・テレジア女帝は「素晴らしい教科書」と大絶賛!
1775年にフランス語に、1801年には英語に翻訳されてヨーロッパ中で
出版され、マリアの名前は一躍「女性数学者」として躍り出ます。
それと同時にマリアはある「曲線」についても論じ始めました。

 

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これは今では「アニェージの曲線」と呼ばれるのだそうですね。
イタリア語で「La versiera di Agnesi」と書きます。
ところが発表当時これを英語に訳す際にケンブリッジ大学のコルソン教授が
誤って「L'avversiera di Agnesi」と読んで訳してしまったのです!
英語ではwitch of Agnesi=アニェージの魔女という恐ろしい名前で

この「曲線」が知れ渡るようになったのだとか・・・いやはや。

こうしてマリアは時の教皇ベネディクト14世からボローニャ大学の
数学および自然哲学の教授に任命されることになりました。
なんと史上2人目の女性教授誕生!!しかも弱冠32歳という若さで!!
(ちなみにヨーロッパの大学で初めて教授になった女性も
イタリア人ラウラ・バッシで、物理学の教授です。18世紀に、女性の

こうした活躍の場が北イタリアではあったのかなと思うと興味深いです)

1752年に父ピエトロが亡くなると、マリアはミラノの自宅を病人や
貧しい人々に解放し、神学を学びつつ彼らの世話にあたるようになりました。
小さな病院を開設し、彼女自らも看護士として働きつつ、
1799年1月9日の命尽きるその日まで慈善活動をしながら、その生涯を終えます。

 

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ミラノ中心部のマンゾーニ通りに建つブレンターニ館を見上げてみると
彼女の偉業を讃えて壁に、なんとも凛々しい胸像が飾られていました。

 


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