エゴチスムな日々

イタリアの閑暇そしてその悦楽

カラヴァッジョの静物画 果物籠 

ミラノのアンブロジアーナ絵画館にあるカラヴァッジョの「果物籠」。

先月、かなり久しぶりに鑑賞する機会に恵まれました。

以前観た時と展示位置や照明が変わったので、今までもっと「黄色い」

イメージがあった作品ですが、薄いクリーム色というか白っぽいイメージに

変化した気がするのは私だけでしょうか。

 

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こうした静物画という画題が独立した絵画ジャンルとなる一歩を

踏み出したのは16世紀半ばのことです。

ただ当時、絵画はジャンルごとに等級化されていて、最高のジャンルは

もちろん宗教画、そして歴史画、肖像画、風景画、風俗画という順番でした。

そして最下級に静物画が置かれていました。これは花や果物などの存在する

領域が「卑しい現実」と思われていたこと。そして絵画技術においてもっとも

高級なのが人体描写、人間を主題とする「意味をもつ」大画面を構成すると

いうことが画家の使命でもあったわけです。

 

当時(それ以降も)は静物画の担い手に女性画家が多かったのも、残念ながら

「女にも出来る職人仕事」だと思われていたからです。また、女性は裸体の

写生を禁じられていましたので、人体表現の訓練が出来なかったということも

あります。

 

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(オッタヴィオ・レオーニ作カラヴァッジョの肖像)

 

話が逸れてしまいましたが、カラヴァッジョはそういう風潮があった

当時に「花の絵を描くことと、聖母の絵を描くことは同じ価値がある」と

言っています。非常に新しい(変わった?)考え方だったでしょうね。

 

カラヴァッジョの「エマオの晩餐」について以前このブログでもご紹介

しましたが、↓

egotisme.hatenablog.com

そこでもカラヴァッジョは果物籠を描いていますが、テーブルの端から

今にも落ちそうな感じで描かれているのが気になりますね。

そしてアンブロジアーナ絵画館にある「果物籠」も、よく見ると

台の端にはみ出して描かれているのです。

 

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台座からはみ出すように人物や物を置くということは、ルネサンス時代から

描かれていました。これは「浮彫効果」を狙うためだったとも言われます。

またこうして不安定な状態に置くことによって、安定した土台にない、つまり

危ない、脆い存在であるとの表現かもしれません。

 

西洋文化において、果物といえば、アダムとエヴァが食べた知恵の樹の実。

そして果物は人間の五感のひとつ、味覚の寓意でもありました。果物は甘く、

虫が食いやすい、また腐りやすいものと考えられ、甘美ながら束の間の

「快楽」の寓意としても考えられてきたようです。

 

カラヴァッジョの「果物籠」にも林檎の所々に虫の食った跡が。

これはすでに退廃の始まりを意味しているのだとか。

またブドウの葉もみずみずしく描かれているものと、枯れ始めている

葉も見受けられます。それはブドウの汁気を多く含んだ輝くような実と

対比して、まるでカサカサとした音まで聞こえそうです。

 

静物という具体的なものをこうして描くことによって「世俗的快楽の

はかなさ」という観念を表現するという方法は、最後の晩餐などの

宗教画の中から次第に生まれ、そして発展してきました。

 

イタリアはルネサンス以来、宗教画や人物像の伝統を頑なに守って

きました。そんな中でカラヴァッジョの「果物籠」は初めての独立した

静物画だったのです。

 

参考文献; 三浦篤 『まなざしのレッスン1』

      若桑みどり 『絵画を読む イコノロジー入門』

      田中英道 『イタリア美術史』

      http://www.ambrosiana.eu/cms/

 

 


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